陶芸は専門学校に行っていた
ぱたんこ屋2021年10月6日 06:32
私と高木は「芦屋の敵翠美術館付属の陶芸学校の最後の生徒」でもある
今はここは「教室しかないのですが」私たちは「プロ養成所」であるここの学校の最後の卒業生でもありました
滴翠美術館(旧山口吉郎兵衛邸)について
「滴翠美術館」(てきすいびじゅつかん)は旧三和銀行(⇒UFJ銀行⇒三菱東京UFJ銀行)の前身「山口銀行」を経営した大阪の“山口財閥”の四代目・山口吉郎兵衛の雅号を冠した、氏のコレクションした美術品を所蔵・展示する私設美術館。
その建築は山口吉郎兵衛邸として、昭和の関西を代表するモダニズム建築家のひとり・安井武雄の設計によって1932年(昭和7年)に手掛けられたもの。関西モダニズム建築20選・ひょうごの近代住宅100選等に選定。
そこは「芦屋の駅から歩いていく高台にあり森があり素晴らしい場でした」
私たちはそこで出会い
そうして
今に至るのです
高木はその頃から「焼き物は焼いてなんぼや」なんて言う奴でもあり
長野で修行していたそうでそこで「弟子入り」なかなか苦労していたみたいで
その苦しい修行でどうも根性が捻じ曲がったのか。。。。。
なにせ「えらそう」なので私は1年間避けておりました
ある時「私がロクロを回していたら」
高木くんが「洗濯機」を睨みつけていたので
「何してんの??」聞くと「洗濯機がちゃんと洗濯しとるんか見とるんや||||」
で「なんかこいつ「おもろい」と思い遊び始めました
ここの美術館は最高の環境で先生も最高の先生たちです
釉薬の本を出されて入る「大西先生」なんてまじかで授業
京都の八木一夫先生のお弟子さんなんかもここの先生でした
覚えているのは
アルバイトで忙しく「高木はあんまり授業には出てこれなくて」なのに「大西先生の釉薬の授業にはいつも出ていて、食い入るようにお話しを聞いていました」
窯は二人1組で焼いていて
私は大きなオブジェ「まあうんこみたいなもんですわ」
その間に「高木くんの食器」でした「小物」それでバランスを取っていました
私は「宇宙陶器」と言うシリーズを作っていてそれが何かの拍子に
高木の器に引っ付いたりして「よく喧嘩」
こいつとはともに仕事したくない|||と思ったもんです
なので「ともに暮らす時に」私は「焼き物」をやめることにしました
幸い
「さをり織り」と言う素晴らしいものに出会い
33年さをり織りさせていただいています
とにかく彼は「火」で「焼く」をしたくて自分で「窯を作る」つもりでしたから
九州の大分県清川村で初めの土地で「窯を築く」工房を建てるをしましたが
その前に「サラリーマンの息子である彼に工房なんて建てられるんか???』と疑っていましたが・・・・・
そこはそれ
男ってすごいね。。。。建てれた||||
でもその前に「図書館に行ってくるわ」と言うて出て行き・・・
持ち帰った本が
「法隆寺」の本ですわ。。。。。。
私は「咄嗟に働こう」と思ったのです
ですが「ナイナイ」仕事なんてない||||||高木が「さをり織りしたらいいやん」と言うのですで
「そうかー^^そうやなー^^」
初めの頃はよくさをり織りで「コースター」を湯布院のお店で置いてもらい
高木が端結びを手伝ってくれていたのですが・・・
その姿がなんか「惨めで」やめてもらいました
陶芸ができない数年は長かったと思うのです2年は別府「竹工芸」の学校
3年は「工房を建設」
多分焼き物は5、6年はできなかったのに「彼の自分肯定」どこからそれがやってくるのか「自信」のせいやわ
全く「焦っていなかったですわ」
私はひたすら働き
子供ができても働きつずけていました
でも考えてみたらん二人は他に仕事に行くこともなく
今に至るので「これはこれで最高やなと」
17年くらいこの清川にいてここ竹田に移住して来ました
引っ越して来たその日は「神原渓谷大橋の開通の日」で市長のテープカットの後。。なぜか、、、Kトラで荷物を運ぶ私たち
そんなことある??不思議
ここでも
0からのスタート
また一から「工房作り」「窯作り」ここは2年かかりました
ここで16年が経ちました
と言うことは私は33年「さをり織り」してるやんー^^
清川村では「工房作りも手伝い」「窯たき」も手伝っていましたが
ここ竹田に来てからは
一切手伝うのをやめました
それが「二人で生きていくのに生きやすい」からです
喧嘩したくないものね
喧嘩も死にそうにも何回もあったのでね
関わりたくないのですわ
お互いです
彼も60歳今回は還暦です
もうすぐ展示会です
これが今の竹田の工房です「見学不可」看板もないです
今回なかなかいいですよ
どうぞ
みに来てね
7日から12日
作家在廊「大分トキハ7F」
高木逸夫作陶展「無風窯です」
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